青森県の特色まとめ
地理
県庁所在地 | 青森市 | |
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地域区分 | 津軽地方 | 青森市、東津軽郡、弘前市、黒石市、平川市、中津軽郡、南津軽郡、五所川原市、つがる市、西津軽郡、北津軽郡 |
南部地方 | むつ市、下北郡、十和田市、三沢市、上北郡、八戸市、三戸郡 | |
人口 | 1,237,984人(全国第31位) | |
特長 |
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観光
観光地 | 弘前城:弘前市 弘前公園に隣接する弘前城は本丸・北の郭が重要文化財として残っています。 1603(慶長8)年に大浦為信が城の築城を計画し、完成前に亡くなったため、 3男・信枚(信牧)が為信の後を継いで完成させました。 |
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八甲田山:青森市~十和田市 標高1585mの大岳を主峰とし高田大岳、石倉岳など10峰からなる北八甲田と、 櫛ケ峰などの6峰からなる南八甲田を総称し八甲田山という。地獄沼や田代平湿原などに火山の名残が見られる。 |
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八食センター:八戸市 八戸市の近海でとれた新鮮な食材が揃っています。市場と厨スタジアムに分かれていて、「食べる」ことに関しては満足度がかなり高いスポットです。 |
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三内丸山遺跡:青森市 2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。 |
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奥入瀬渓流:十和田市 渓流沿いの遊歩道では4時間半くらいのトレッキングが楽しめる。 新緑や紅葉の時期は、特に美しい景観となり、1928年に天然記念物に指定されている。 |
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十和田湖:十和田市 日本の湖沼では12番目の面積を誇る湖。 渓流散策、展望エリア、キャンプやカヌーも楽しめる。 近くに温泉もあり、ゆっくりとした時間を過ごすことができる。 |
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恐山 死者の御霊を呼び口寄せを行なうイタコ(いたこ)がいる霊場、いわゆる心霊スポットとして有名な恐山。 4つの温泉があり、宿泊をすることもできます。1杯飲めば10年、2杯飲めば20年3杯飲めば死ぬまで若返ると言われる、「若返りの水」があります。 |
特産品
食品 | 食品 |
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料理 |
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工芸品 | 工芸品 | 津軽塗:国指定伝統的工芸品 青森県弘前市を中心に製作販売される青森県を代表する伝統的工芸品です。 現代まで伝わっているのは唐塗/七々子塗/紋紗塗/錦塗の四技法です。 |
産業
産業 | 拠点がある有名企業 |
株式会社ユニバース(八戸市) |
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主要産業 |
1位:卸売・小売業 |
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産業別就業者の割合 |
◇第一次産業 3.9% |
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名目県内総生産額 | 約4兆3,744億円 | |
産業に関する施設・史料館 |
◇ねぶたの家 ワ・ラッセ ◇青森県りんご史料館とりんご栽培試験圃場 |
性格
県民性 | 全体 | 歴史的背景でも「犬猿の仲」だった津軽(西部)と南部(東部)のふたつの地方が統合されてできた青森県。統一されたとはいえ津軽弁、南部弁の方言はもちろん、民謡に至るまで県民性も大いに異なるのが特徴。津軽にはでしゃばりタイプが多いのに対し、南部は口ベタで引っ込み思案が多く両極端といえる。もちろん男女とも口ベタで誠実、温和で照れ屋な「東北人的」気質と、「じょっぱり」と言われる頑固さは、青森全体の県民性として根付いている。 津軽、南部出身者とも仕事は真面目にコツコツと努力するし、恋愛も浮気なんてもってのほかのスタンス。 |
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男性 | 東部と西部では性格が大きく異なるが、全体的には誠実で温和、世渡り下手、考え込むタイプが多く、照れ屋という点では共通している。頼まれると嫌といえないところがあり、研究熱心な努力家も多い。酔うと意外な一面を見せることも。 | |
女性 | 母親のがんばりを見て育つため、しっかりした女性が多い。気難しそうに見えても、本質はロマンチスト。活発で度量も広く姉御肌。 |
歴史(人物)
歴史上有名人 |
太宰治 その後第1回芥川賞候補となるも落選。選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。 【代表作品】 |
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歴史
歴史 | 古代 | 日本列島では1万2000年前になると、ものを貯蔵・煮沸する容器として土器が考案され、津軽半島の蟹田町(外ヶ浜町に合併)にある大平山元I遺跡では、無文土器や局部磨製石斧が出土し、生活の様相が大きく変わった。縄文時代の遺跡として、三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、是川遺跡などが現在までに発見されている。これらの遺跡には豊富な土器・広い集落、また他地方のものと思われる遺物が発見され、文化・経済などの面で周辺にも強い影響を与えていたと考えられている。 また、弥生時代前期の水田跡遺跡として知られる砂沢遺跡や中期後半の垂柳遺跡が発掘されており、米の栽培が行われたことが確認されている。ただし、弥生時代中期に稲作は衰え、大幅な人口流出があったものと考えられている。 |
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近世 | 豊臣政権時代の奥州仕置を経て、北奥大名領が成立する。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて南部氏ら東北大名は会津上杉景勝包囲への動員を命じられており、津軽氏は東軍本隊と合流し美濃大垣城攻めなどに参加している。関ヶ原の後、東北では会津上杉氏の出羽米沢への転封をはじめ、大規模な大小名の再配置が行われるが、陸奥北部では南部・津軽領の支配に大きな変動はなく、陸奥国北部のうち太平洋側の東部が南部氏の盛岡藩領8万石(後に20万石に高直し)、日本海側の西部が津軽氏の弘前藩領4万5000石(後に10万石に高直し)となり、両大名領の藩境は津軽側の狩場沢、南部側の馬門に定められた。ほか、県南東端から岩手県北東部端にかけては盛岡藩と同じ南部氏一族が支配する八戸藩2万石があり、県中部には弘前藩の支藩として黒石藩1万石とその飛地があった。 県域は本州アイヌの居住地で、弘前藩領である陸奥湾沿いの夏泊半島や、盛岡藩領では津軽海峡に面した下北半島が主な居住地であり、アイヌ語地名も見られる。アイヌの居住地は領主側に把握され、アイヌは弘前・盛岡両藩主へお目見えし、産物を上納したという。アイヌの生業は畑作や漁業・廻船業のほか蝦夷地(北海道)の松前藩領との交易で、狩猟や漁労を生業の中心とする蝦夷地のアイヌとは異なり、北奥地域の漁民と変わらないものであったと考えられている。江戸時代後期にはアイヌ居住地への和人の進出が顕著になり、同化が進んだ。 南部と津軽では気候風土も異なり、特に太平洋岸の南部地方では冷害・凶作が発生しやすく飢饉の際に大きな被害を受けたが、下北地方では餓死者がほとんどいなかったという。 戊辰戦争時、弘前藩も盛岡藩も当初奥羽列藩同盟に属していたが、途中で弘前藩は官軍に寝返った。戦後、盛岡藩は大幅に石高を減らされ、その跡に斗南藩が置かれ、もと会津藩の松平家が3万石で入った。同じ頃、盛岡新田藩とも呼ばれ、その領域が明確ではなかった七戸藩1万石の領域が確定した。 |
有名学校(学力/スポーツ)
有名高校 | 学力 |
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スポーツ |
◆青森山田高校 【サッカー】 ◆光星学院高校(現八戸学院光星高校) 光星学院高等学校に進学し、1年秋から遊撃のレギュラー、2年春から4番を務め、秋の東北大会準優勝し、3年春の第78回選抜高等学校野球大会に出場。春の東北大会では16打数13安打で打率.813、4本塁打の活躍で注目を集めた。高校通算39本塁打。 【男子バレー】 五所川原工業高校 八戸工業大学第一高校 の3強 |
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有名大学 | 弘前大学 馴染みのない人にとっては、理解するのが難しいとされる東北弁。なかでもクセが強いと言われるのが、津軽弁。 それを解説した青森県・弘前大学の教材が話題になっている。 |
有名人
出身有名人 | タレント | ◇田中義剛:八戸市 ◇新山千春:青森市 ◇松本莉緒:つがる市 ◇王林:弘前市 ◇古坂大魔王:青森市 |
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歌手 | ◇ELLY(えりー/三代目J Soul Brothers):三沢市 ◇吉幾三:北津軽郡金木町 | |
俳優 | ◇松山ケンイチ:むつ市 | |
文化人 | ◇室井佑月:八戸市 ◇長部日出雄(直木賞作家「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」、弘前市) ◇太宰治:北津軽郡金木村 |
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スポーツ選手 | サッカー | ◇櫛引政敏:青森市 ◇柴崎岳(サッカー日本代表 鹿島アントラーズ):上北郡野辺地町 |
有名選手 | その他 |
【アーチェリー】
【大相撲】
【レスリング】
【ボクシング】
【登山】
【陸上】 |
プロスポーツチーム
スポーツ | アイスホッケー |
東北フリーブレイズ(アジアリーグアイスホッケーに所属) ※本拠地 郡山市、八戸市 |
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バスケット | 青森ワッツ(B.LEAGUE)※青森市 |
その他
その他 | その他 | 【リンゴ生産】 県のりんご試験場では約300種、県内では約50種が栽培されており、 市場に出荷されているのは約40種類。 もちろん日本一の出荷率である。 紅玉、スターキング・デリシャス、世界一、ジョナゴールド、陸奥、星の金貨、 つがる、シナノゴールド、王林、ふじ、金星、 あおり11、 しおりの詩、恋空…などなどこれでもほんの一部の品種である。 |
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【地域の名前】 【県民の苗字】 |
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【地域性】 青森県内では青森・八戸・弘前の街がそれぞれ対立しているといわれている。 三都市が互いに敵対意識を持っている。 |
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【ねぶた祭り】 「ねぶた」の起源には諸説ある。 ①平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂に由来するという説 東北一帯を支配していた「蝦夷」を討伐する際に戦場を灯籠で照らし笛や太鼓をはやし立てた ②七夕行事から始まった |
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【自分の呼び名】 青森県では高校に進学すると自分の呼び名が「わ・おら・俺」のいずれかに分かれます。 中学までは「わ・おら」と方言でも良かったのですが、色んな地域から人が集まる高校はそうもいきません。 周りの様子を伺いながら、自分の呼び名を決めていきます。 だいたい高校入学と同時に方言を直し始める人もいます。 |